交通安全

加害者を許すことの出来なかった44年間の苦悩

公開日 2009.06.19

心理療法士 女性 50代

 

母・享年49歳。33回忌の法事の時は、兄弟の全員がそうであったように、母不在の33年間の寂しさや悲しさ、空しさ、悔しさが走馬燈のように頭を駆け巡り、33回忌の法事を迎えたことで、やっと自分の心に一つのけじめがつけられた。

当時の私の家は、さとうきびや家畜等で生計を立てながら、一方で母が朝早くから豆腐作りをして家計を支えていた。両親は9人の子育てに追われながらも家族を大切にし、一生懸命働いていた。父は頑固で大変厳しく、物事には細かい人だった。母は何事にも情け深く働き者で、辛い時でも笑いを絶やさず、隣近所からも慕われていた。母の所には人々が集まりいつも賑やかだった。私はそんな母が大好きで、ただ母の側にいるだけで良かった。母の笑顔が見たくて家の手伝いを率先してやったが、両親はそんな私を特に褒めることはなかった。当時の家庭状況では手伝うことが当たり前だったからである。それでも母に褒めてもらいたくて、忙しい母に代わって家事を一生懸命手伝った。が、私の心は徐々に寂しさに耐えきれず、不登校を繰り返すようになった。元々虚弱体質だった私は12歳まで入退院を繰り返し、両親にいつも心配ばかりかけていた。私が小学校6年生の時、私の人生を変えてしまうような惨劇が起こったのである。その日は小雨が降っていて肌寒い日だった。我が家は兄の結婚式当日で、祝賀ムードで一杯だった。披露宴を終え、南部から北部へ向かう途中で悲劇は起きた。私の目の前で、飲酒運転の車が母の乗った車に正面衝突したのである。母は即死であった。あまりのショックな出来事に、私は変わり果てた母の姿を目の当たりにしても、泣くこともわめくことも出来なかった。相手は若い男性で、無傷で事故車の前に呆然と座り込んでいた。

太陽のように明るく、ひまわりのような存在だった母を失った我が家は、一瞬にして暗闇に突き落とされた。良き伴侶を失った父は、毎日酒を飲んでは仏壇に向かって泣いていた。弟、妹は二人は夕方になると、母を求めていつも泣いてばかりいた。このことは幼い私にとってもつらく、不憫でならなかった。精神的な支えを失った家族はバラバラになり、夢や希望、人生までも奪われてしまった。父も心労と疲労から倒れ半身不随となり、長期の闘病生活から帰らぬ人となった。私の悲しみや寂しさは何処にぶつければいいのか、それは加害者を恨み、憎み、殺したいという思いに変わり、44年間私を苦しめた。加害者は幸せに子や孫に囲まれているのかと思うと、私の苦しみは募るばかりであった。過去のトラウマを抱えながら、私は心理療法上の道を歩んだ。

私の最初のカウンセリングに3歳と6ヶ月ぐらいの赤ちゃんを連れて相談に訪れた36歳の女性がいた。彼女の相談内容は、夫が事故を起こし、1億2千万円の賠償金が必要と言われ、「自分には金も財産もない、生きることにも疲れた。だから子どもと一緒に死にたい」と言うものであった。私はその時、目の前の彼女の顔に、母を死に追いやった加害者男性の顔が重なって見えた。「被害者の気持ちがあなたにわかるものか」と心の中で叫んでいる自分がおり、彼女のことを理解する気持ちになれなかった。その時、3歳の男の子が「ねえ、おばさん、おばさん」と満面の笑みで私に声をかけて来た。その時の私の顔は、きっと鬼のような顔になっていたのでしょう。我に返って目の前の家族の姿を見て、「何と残酷なことだろうか。被害者も加害者もみんな苦しんでいる」という事を学んだのである。この事を通して、私は44年前の加害者の男性を心から赦してあげよう、という気持ちになった。44年間、母の事で泣くことを忘れていた私であったが、その時は溢れてくる涙を止めることは出来なかった。今尚自然と涙が出て心を浄化している。このような悲惨な事故はもう二度と起こしてはいけない。また、この世の中から飲酒運転や交通遺児が無くなることを願い、生きている限り使命として、私は飲酒運転根絶に取り組んでいくつもりです。